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沖縄は、第二次世界大戦時に地上戦が行われ、多くの住民も巻き込まれました。
その当時の悲惨さは、書紀や本、テレビや映画やなどで広く知れ渡り、今でも語り続けられています。
それでは、沖縄本島から遠く離れた宮古島はどうだったのでしょうか。
戦後から70年以上が経ちますが、宮古島で生まれ育った私でさえも知らないことが多いので、詳しく調べてみました。
宮古島も戦場になったのか?
日本の敵だった連合国軍は宮古島へ上陸しなかったので、地上戦は行われませんでしたが、1944年〜1945年にかけて空襲と、海からの艦砲射撃に遭いました。
その理由としては、海軍飛行場が3つあったためです。
この海軍飛行場は、島全体が平坦であることから「航空基地として最適」と判断され、1943年から建設が開始されることとなりました。
そのための土地は半強制的に取り上げられ、建設工事には住民も駆り出されたとのこと。
そして、1944年には約3万人もの宮古島守備部隊と呼ばれる日本軍人が駐留することとなります。
当時の宮古島の人口は約5万人でしたから、約1.6倍に膨れ上がったことになります。
それと同時に、非戦闘員となる住民(女性や子ども、高齢者が対象)約1万人が台湾や九州へ疎開します。
航空基地として使用された宮古島は、空襲で畑などの町の大半が焼失し、食糧を運ぶ輸送船も魚雷で沈められました。
そのため、食糧難と劣悪な衛生環境を強いられることになります。
その結果、宮古島では直接的な戦火よりも、飢餓とマラリアで命を落とした方が多く、その犠牲者の数は3,000人以上とされていますが、正確には分からずじまいとなっています。
私の親は、戦後すぐの頃に産まれた世代なのですが、とにかくひもじい思いばかりしていたと言いますので、この飢えと病気との戦いは数年間続いたと思われます。
約3万人の日本兵
「約3万人の日本兵の駐留」という異常な状況はどういうものだったのか、当時の様子について調べてみました。
「敵は沖縄本島のみならず宮古島にも来る」と判断され、続々と日本兵が南の小さな島に集められました。
当時、宮古島に来た日本兵の書紀によると、宿も何も用意されておらず、いきなり野宿を強いられ、お米はあるものの将来のために制限され、芋を育てヤドカリを食べ、台風に見舞われながら、一から陣地を構築していったそうです。
宮古島の主食は芋で、最初の頃はお国のために働く兵隊さんに、住民は快くその芋を提供してくれて、中には味噌やお魚をくれる方もいたとのこと。
しかし、あまりにも日本兵が増え、島の人より兵隊さんの姿を見ることが多くなってくると、芋が欲しいと頼んでも、自分たちの食べる分で精一杯だからと断られるようになります。
民家に出入り禁止の命令が出ていたにも関わらず、空腹に耐えきれず芋を盗んだり、民家を荒らしたり、高圧的に接してくる日本兵も現れます。
宮古島守備部隊とは名ばかりで、実際は反対のことをしているのですから、裏切られた気持ちは相当なものだったのでしょう。
その後、食糧補給も完全に途絶え、畑も焼かれて芋も採れず、完全に孤立した島で、日本兵も住民も栄養失調とマラリアに苦しむ日々を強いられることになります。
生きていくのにギリギリだった苦しい生活は、想像を絶するものがあったことでしょう。
直接の敵との戦いではなく、この飢えと病気との戦いは「もう一つの戦争」とも呼ばれています。
マラリアとは
この多くの人を苦しめたマラリアについて調べてみました。
マラリアとは結核、エイズと並ぶ世界の3大感染症のひとつで、亜熱帯や熱帯地域を中心に流行している感染症です。
ヒトからヒトへの感染はなく、マラリア原虫を持つ蚊がヒトを刺すことによって感染します。
感染した場合、激しい高熱と悪寒に苦しめられますが、発症してから24時間以内に治療しないと重症化し、致命率が高くなります。
その当時、治療薬も充分もなく、衛生状態も劣悪、ほぼ着るものもなく肌をさらしたまま屋外で寝る、という蚊よけ対策も何もされていない状態だったと考えれば、その感染の早さはもの凄いスピードだったと予想されます。
現在でも世界では毎年3〜5億人が感染していますが、日本での発症は根絶されました。しかしそれでも毎年、海外からの輸入感染で100人近くの日本人が発症しています。
まとめ
以上、宮古島の戦争についてでした。
私自身も知らないことばかりでしたので、調べてみてとても勉強になりました。
ただ、現在でも「ある1つの出来事」に対して、様々な意見や感情があるので、当時も一辺倒ではなかったと思います。
同じ日本兵でもその立場で変わったと思いますし、住民も日本兵と深く関係を持った人もいれば敵対していた人もいたはずです。
現在でも、新たな日本軍の文書が見つかったりして、歴史が変わったりしていますし、もしくは、歴史を捻じ曲げて政治に利用するための嘘も紛れているかもしれません。
当時の様子はそれを生き抜いた当事者たちにしか分からないので、真実を突き止めるのは難しいですが、多くの方が命を落としたことだけは紛れもない事実。
このような悲惨な出来事が二度と起こらないように、戦後70年続いている平和が、これからも続いていって欲しいものです。
(参考:総務省HP他)
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